保護中: カマクララ 3
カマクララ 2
幹部たち
精神病院といえども精神科医だけで運営されているわけではない。
病院には幹部と言われる人たちがいた。
メンバーは、鈴北院長の他に、事務長も兼任していた安部看護部長、中牟田薬局長、小山医療連携室長の4名である。
この4人の他、名誉院長、犬飼、千代岡を加えた7名で月に一度医局に集まり、病院の大雑把は運営方針を決めていた。
運営会議とは呼ばれていたが、各部門のエピソードトークが多く、実際には雑談に近い。
4月の運営会議は、3月に運用が開始されたばかりの電子カルテと連動して動く画像処理系システムの話題が出た。
今時、ID&パスワードのみの本人認証を行っていたり、担当者の小山医療連携室長が DICOM と呼ばれる医療画像フォーマットのことを全く理解していなかったり、とややおかしいなと犬飼は思うところもあったが、「こんなところで知識をひけらかさなくても」と、そのとき彼は特にコメントはしなかった。
フクロウ病棟
4月、5月と犬飼は、この病院での久しぶりの病棟医生活を愉しんでいた。
安定している患者さんも多かったが、中には「自分は断じて統合失調症という疾患ではない。だから、病院から出された薬は絶対に飲まない。あれは毒だ」というような典型的な幻覚妄想型の統合失調症患者もいた。
フクロウ病棟では、このような場合、患者の説得を続けるのが常であったが、当の患者といえば、入院してから、はや一年、全く説得に応じる気配はなかった。
膠着状態に入ったと誰の目から見ても明らかになったとき、犬飼が主治医になることになった。前主治医の名誉院長が困っているのを見て、犬飼が忖度したと言ってもいい。
犬飼はこう思っていた。
「病識のない患者に言葉による説得から始めるのは、当然だ。ただ、効果がないとわかった段階で強制的な治療をやむを得ないだろう。なんでこの病棟はそれをしないのか? 幻覚妄想期が続けば続くだけ、後で人格水準が低下することは今ではわかっている。いくら精神療法がウリの病院だとしても、精神療法だけで治療が完了する患者ばかりではない。少なくともこの患者には、今すぐ強制的にでも治療を開始するべきだ」
実際、彼は、男性看護師2人と協力して、向精神薬の入った筋肉注射を強行した。
精神科には二重見当識という言葉がある。
患者が「薬は毒だ」と心の中で思っていたとしても、「薬を飲まないともっと酷いことになる」、「病棟生活をうまく送れない」という意識が勝れば、服薬を承諾してくれる。
このように一見すると背反する考えが同じ患者の中に共存することはありうることで、意外に思われるかもしれないが患者は困った際には二つの考えのどちらかを合理的に使い分ける。
このような心の状態を二重見当識という。
犬飼は精神科医としてのトレーニングを都立松沢病院というところで始めたのだが、「説得」が役に立たないと分かればすぐさま「強行」するような病院であった。
犬飼自身も「精神科医はひたすら話を聞き、肯定してくれる優しさが本質」という思いが医学生時代よりあり、そのような治療環境に最初は違和感を覚えたものだが、その後の患者の生活ぶりを間近で見るうちにいつしかそのような治療を受け入れるようになった。
初期研修が終わる頃には「野蛮」と言われることも「松沢上がりの精神科医」と見られることも厭わない精神科医になっていた。
果たして、その患者は、薬を服用するようになった。
精神症状も改善、服薬し始めてから1ヶ月後には退院を視野に入れるまでになった。
死亡退院
5月の運営会議。
犬飼は資料に目を通しながら、特に何かを意識するでもなくただの感想を漏らした。
「リス病棟の死亡退院が多いですね」
何気ない一言だったが、その直後にその場は静まり返り、何人かは顔を見合わせた。
ややあって鈴北院長は笑顔を浮かべながら明るい口調でこのように言った。
「あー、いや、リス病棟は認知症病棟だからね、もともと高齢者が多い。
今も、そろそろという人が二人ほどいる。
死亡診断書は書いてあるから、その時はサインよろしくお願いしますね」
言い終わると鈴北院長は座ったまま頭をぺこりと m(_ _)m のように下げた。
犬飼も特に深い考えがあっていったわけではない。
1F のリス病棟が 40 床、2F のフクロウ病棟も 40 床。
身体的に問題のない患者が多いフクロウ病棟の死亡退院は 4, 5 月はゼロ。
一方、リス病棟の死亡退院は 4 月に 1人、5月ここまでで 2人。
すごく多いわけではないが、少なくもない、というのが臨床医の感覚だろうか。
「そういえば、うちに来たいって指定医持ちの先生がいまして、今度、面接します」
事務長も兼任している安部看護部長が、そう言って話題を人事的な話に切り替えた。
(その3に続く。諸事情で限定公開になっています)
この物語はフィクションです
カマクララ
4月
「平和を絵に描いたような風景ですね。長閑だ。治療的でもある。こんな景色を毎日見れてたなんて、幸せだったんでしょう、先生?」
カマクララ病院にこの4月から着任した精神科医の犬飼孔明医師は、傍らに立っていた千代岡美穂医師にごく自然に心に浮かんだ感想を交えながらそう訊いた。
「ええ、そうね、来たばかりの頃は私もそう思っていた。・・・でも、今は・・・」とそう言いかけた後、さっと明るい表情を浮かべて慌ててこう付け足した。
「あ・・私は見飽きちゃったかな? えと・・なんでもそうでしょ。美味しいご飯も毎日なら飽きる。どんな美しい音楽も1日中聴いていたら退屈に感じてしまう。美しい絵画もカレンダーのように毎日眺めてたら、初めて観た時の感動は薄れてしまう」
そして最後にこう付け加えた。
「先生のタイプどストライクの美人も賞味期限は3日まで、でしょ?」
犬飼医師は苦笑せざるをえなかった。
単科精神病院であるカマクララ病院は、風光明媚な湘南地方の鎌倉裏山のほぼ山頂近くに立っていた。鎌倉裏山は、地域の住民は隠語的にカマクララと呼ぶことがあり、病院名もそれにちなんで名付けられていた。
二人は、昼休みに食事を取った後、カマクララ病院で最も眺めのいい作業療法室のテラスに出て、他愛のない会話をしていたところだった。
湘南地方に点在する小高い丘は緑に覆われ、ところどころに風情のある民家が見える。そして、今が見どころと言わんばかりに咲き誇った桜は、その風景にその淡いピンクを差し色のように美しく散らしていた。
ひとしきりその光景を堪能した後、犬飼医師は
「さて、午後の診療、診療」
と区切りをつけるように言って、病棟に向かっていった。
林田療法
カマクララ病院は3層からなっている。
1F は認知症病棟であり、リス病棟と呼ばれていた。定年間近の鈴北院長が一手に患者を引き受けていた。
2F はある点を除けば一般的な精神科病床であり、フクロウ病棟と呼ばれていた。フクロウ病棟には、鈴北院長以外の精神科医師3名、つまり犬飼医師・千代岡医師そして85歳の田邊名誉院長が在籍し、それぞれ入院患者を受け持っていた。入院患者が抱えている疾患も様々で、統合失調症がやや多いもののうつ病やいわゆる「神経症」患者もいた。
神経症はフロイドの時代が過ぎ去った今、精神科診断学的には消滅した概念であるが、強迫性障害や身体表現性障害などと名前を変えて生き残っている。
フクロウが一般の精神病症と違う点は、林田療法が実践されていた点だろう。
林田療法は、大正期に精神科医林田春馬によって提案された治療方法で、臥床や内省といった独特の技法で日本人に多いとされる神経症を治療する一時期は人気のある治療法であった。「であった」というのは、その後の薬物療法や西欧から輸入された認知行動療法などの「モダン」な精神療法、そして ECT や rTMS といったデバイスを用いた「科学的」な治療法の隆盛で、次第にその勢いを失い、今では、ほぼ消滅したと言ってもいい治療法であったからだ。
林田療法は精神科の教科書には、その名を留めてはいるが、実際に見たことのある精神科医は稀だろう。その林田療法を名誉院長の田邊はひっそりと継続していたのである。
カマクララ病院の 3F は、外来ブースや医局、先ほどまで犬飼と千代丘がいた作業療法室などから構成されていた。
3F に外来があるのは奇妙に聞こえるかもしれないが、これはこの病院が鎌倉裏山の山頂から斜面にかけて埋設されるように建築されているためだ。山頂部に顔を出している 3F 部分がちょうど通常の病院のエントランスに位置に相当する。
犬飼医師はフクロウ病棟に戻った後、面接室の一角を折りたたみ式の屏風で仕切り、そこに座布団を二つ敷いた。患者用と自分用だ。
自分用の座布団に正座し、看護師に頼んで患者を呼び込んで患者用の座布団に座らせた。
林田療法の内省期には、面接時に定型的な質問を投げかける。
「では、この内省期であなたのお父さんお母さんがあなたにしてくれたことを教えてください」
外から聞こえる雀の鳴き声以外何も聞こえない空間で、患者は言葉を選びながら答える。
いくつかのやりとりがあった後、犬飼医師は
「教えてくれてありがとう。では、3日後に今度はあなたのお友達があなたにしてくてたことを教えてください」
と言って、正座したまま患者さんに一礼して、面接を終えた。
精神科医の皮を被った物理学者
犬飼医師がこの4月前にこの病院に非常勤で週3日ほどの勤務を決めた理由の一つには、この林田療法の存在がある。
教科書的には知っているが、見たこともない。
冥土に持っていく土産話のレパートリーの一つに加えておくのも悪くない。
そう犬飼医師は考えたわけではあるが、大概において彼の行動パターンはそういうものである。
精神科医ほど変わり者の集団はない。
経歴も様々だ。社会人になった後で、精神科医を目指して医学部に入り直す者。非医学部で医師への未練が断ち切れず、再受験で医学部に入学した者。入学時に子連れという人もいれば、50代という人もいる。
彼らの大半は、医学部に入り直すとそれまでの自分をリセットして医学生としての人生を再開させていくが、犬飼医師はこの点が若干そういった人たちと異なっていた。
彼も国立大の物理学科を出ていったんは就職した口ではあるが、彼の場合は、医学部に入り直した後も物理やそれにまつわる技術を忘れていなかった。
長期休暇にプログラマとして働かないと学費も捻出できないという事情があったにせよ、彼は技術をなおざりにしていなかった。
「きっと若い頃に集中しすぎて、物理頭になったのかな? でもそれならそれで構わない。僕は今でも技術は好きだし、医学も精神医学も好きだ。そのことで将来不利になったとしても、その時はその時。無理に自分を押し殺す人生なんてまっぴらだ」
そんな考えをする人なのだ。
彼のそういった面は良い結果をもたらすこともあれば、悪い結果をもたらすこともあった。
良い面で言えば、彼は医師になって4年目で ECT(ElectroConvulsive Thrapy 電気けいれん療法)に関する業績をあげている。
彼は患者の CT からシミュレーション用の頭部モデルを生成し、電磁気学的シミュレーション結果から、刺激用電極の最適配置と電気パルスの最適パラメータを決定、実際に施行し、治療を奏効させている。
また、この時、開発した医療画像ビューアを商用に転用し、世界を相手に売りまくった。
彼が、50を超えて精神科医として常勤職に就かずとも生活できているのは、こういった副業があるおかげだった。
悪い面は言わずもがなだろうが、こういった結果は、古典的で拡張高いアカデミア寄りの精神科医には、認め難いものであったことだ。
定型的な人生から外れると、いくばくかの成功は得られたとしても、そういう苦労をどこかで処理しなければなくなる。
彼も人生の最終的な着地点を決めなめればいけない時期が近づいていることは自覚していたが、その前にカマクララにちょっと立ち寄ってみるのも悪いことではなかろう、とそんな風に考えていた。
(その2に続く)
この物語はフィクションです
保護中: 精神保健福祉法の虐待通報制度は密告制度の類ではない
湘南鎌倉、再び
先日(8/30)、数年ぶりに湘南鎌倉病院を訪れた。
最後に訪れたのはいつだっけ?
調べたら、2018 年でしたね。
HorliX が爆発的ヒットをする前夜、(当時、総長だった)齋藤先生に呼ばれたのだった(アイキャッチ参照。この記事も参考になるかと。なお六国見山は「ろっこくけんざん」と読むようです)。
先生から医療画像関係の宿題は出されていたのだが、データの取得が難しいとかなんやかんやあってそれっきりになっていた。
今回は、それと関係あるのかないのか不明な状態で呼ばれたんだが、結論を言えば関係なかった。
どちらかといえば、前回記事(『メンタルホスピタルかまくら山の件』)に関係するような精神科関係。
詳細は、諸々終わってから書きます。
猪股弘明(精神保健指定医)
精神保健福祉法四十条の三 -虐待通報-
外勤先の精神病院の一つで精神障害者への虐待と思われるケースがあったので、当局に通報させてもらった。
当局もそれなりに重要と捉えたようで、9月某日、立入調査となる予定だ。9/17 立入調査が行われた。
(続く)
画像など出典
アイキャッチは『メンタルホスピタルかまくら山の件』から。
メンタルホスピタルかまくら山の件
なんか「祭り」への期待が高まっているようなのだが、そうする気は毛頭もありません。
ただ、この件は神奈川県の民間精神病院では初の精神保健福祉法第四十条の三(いわゆる虐待通報)に基づく県当局の立入調査にはなりそうなので、もしそうなればそれなりに意味のあるものになるだろう。
忘れるといけないこともありそうだから、これを機会にまとめていく。
3月
個人的にここ数年は、OpenDolphin や HorliX のメンテなどあって非常勤主体で働いていた。2023年度は、ワシン坂病院(横浜市中区)の日当直をやっていたのだが、経営陣の入れ替わりなどあって院内がごたごたし始め、代わる働き口を見つける必要があった。
これが2024年3月のこと。
大体において非常勤の医師の年間スケジュールは、4月に始まって翌年の3月に終わる。
結局、さるエージェントの紹介で鎌倉市のメンタルホスピタルかまくら山に週2日(月・水)の条件で4月から病棟管理業務を行うことになった。
4月
働き始めた当初はこの病院に悪い印象は全く持ってなかった。
なにしろ、病院からの眺めはこんなものだった。
いやあ、こんな風景を勤務毎に堪能できたら嫌な気分になる人はいないと思うよ。
病院は3階建てで病棟配置は
1F・・準急性期〜慢性期病棟(薬剤調整と精神療法主体の治療)
2F・・認知症病棟
となっていた。それぞれ45床で計90床。
3Fが外来ブースや事務室などがある。3Fに外来?と思う人もいるかもしれないが、病院全体が地下に埋設されているような形状になっていて、感覚としては1Fや2Fは地下に潜っていく感じだ。
ありがたいことに1Fに配属されたので、生死に関わるようなケースは持つことはなく外来の延長感覚でのんびりと勤めることができた。
名誉院長の渡邉直樹先生が入院森田療法を実践しておられて、これも好印象を持つ理由の一つになっていた。
森田療法なんて教科書には書いてあるが、見たことある精神科医なんて少数ではないだろうか。
6月、院長退職
異変が起こったのは6月になってからだ。
それまで2Fの認知症病棟を一手に引き受けていた鈴木雄壱院長が突然の退職。
3人しか精神科医師はおらず(内科医師はいるにはいたが週1日の勤務)補充もきいていないという。
せめてもの救いは3人とも精神保健指定医という精神病院において入院決定や隔離拘束をするのに必要な資格を持っていたことだろう。
認知症病棟は身体合併症との闘いともいってよく、ある程度身体も診れる必要がある。
松沢病院勤務時代から、誤嚥性肺炎だのイレウスだのの治療はある程度自分でやっていたので、私が後釜に座ることになった。
また、この時に、勤務日を7月以降週1日増やしてもらことにした(月・水・木勤務)。
私としては、院長退職に伴うあくまで一時的な措置だと捉えていた。
ここから話は怒涛の展開をみせることになる。
(続く)
猪股弘明(精神保健指定医)
参考
「ここから話は怒涛の展開をみせることになる。」以降、話が難解になると思いますので、参考になりそうな記事などを挙げておきます。
『DNAR=治療不要とミスリードさせ患者さんに不利益をもたらす困った人たち』
この記事は DNAR 同意取得後の治療の問題を取り扱ってます。おそらく本記事でもこの問題が中心になると思うので、予習がてら読んでおくといいと思います。
『阿部生行という看護師と上妻病院と医療ネグレクト』
DNAR=(いっさいの)治療不要ではない、というのが標準的な考え方だと思いますが、では患者さん、特に強制入院中の患者さんの財産に関してはどうでしょう。
記事内で一つの考え方が示されています。
精神保健福祉法は過去何回かの改訂があって、その条文もその都度修正されてはいるのだが、基本的には「強制入院中の患者さんの財産権は侵害されてはならない」というのが患者さんの財産権に対する基本的な考え方だ。
これは当たり前の話で、本人の意思によらず強制的に入院しているのだから、他人が勝手にその財産を侵害してはならない、という原理が崩れてしまっては、他の法律との整合性が取れなくなる。
実は、強制入院期間中の家族間の遺産相続に関するバトルはよくあったりするのだが、病院が患者さんの財産をネコババするというのは、時代背景を考えてもかなりレアで悪質だと思います。
私も基本的にはこの考え方を取っています。
より詳しくは『精神保健福祉法の虐待通報制度は密告制度の類ではない』で述べてますが、諸事情で今のところ限定公開です。
『近年の精神科病院運営のトレンド』
なぜ精神療法をウリにしている精神病院で認知症病棟があるのか不思議に思いませんでしたか?
その背景が説明されています。
私のクソボケエピソードも綴られていたりします。
『医療法人福慈会の謎』
メンタルホスピタルかまくら山のこの当時の経営母体は医療法人福慈会でした。
ネット上で拾い集めた情報をまとめたもので、本記事の草稿みたいな内容になっています。
『メンタルホスピタルかまくら山の件覚書』
際どい話はこちらで。限定公開記事です。最初はただのメモだったんですが、関係者には好評のようです。
歴史
もともとは1932年に結核療養施設として鎌倉山に開院。1955年に精神科病院にコンバート。以降は林間病院と言われていた。
2013年に現在のメンタルホスピタルかまくら山に名称変更。
経営は 2013年以降、長らく「医療法人 森と海」が担ってきたが、現在は医療法人福慈会が運営している。
基本情報
神奈川県鎌倉市鎌倉山1-23-1
TEL:0467-32-2550
保護中: サイト強化
ソースコード嫁
私がカスタマイズした OpenDolphin-2.7m (という電子カルテ。本家 LSC Dolphin の直接 Fork)は、以前に前期LSC一家と言ったら良いんだろうか、ともかく 2018 以前の LSC と繋がりの深かった人々からおかしな非難をされていた。
(『保健医療科学院 小林慎治が国家公務員法違反疑いで厳重注意を受けた件について』や『小山哲央(アーク情報システム)の件』参照)
彼らがいうには、Fork 順は
LSC Dolphin(いわゆる本家) → 2.3m(いわゆる増田ファクト)→ 2.7m (ワイのバージョン)
なんだそうだ。
正しくは LSC Dolphin(Ver 2.7) → 2.7m なんだが、それはソースコードを見ればわかる。
例えば、ModuleModel.java というファイルの冒頭をみてみよう。
2.7 と 2.7m では一字一句いっしょ。
この箇所は 2.3m ではこうなっている。
赤枠の部分が追加されたコードで、検索(hibernate search)のためのアノテーション(@から始まるコード)が付加されていることがわかる。
私がわざわざカスタマイズしたのは、
・2.7 にあったバグ(通院精神療法のコメントが正しく表示されない)を修正したい
・簡易なファイルバックアップシステムを実装したい
というのが主な動機で、データの互換性は完全に保ちたかったから、データ構造周りには一切手をつけていないし、上記の機能に関係しない部分も同様に手を加えていない。
だから、2.3m → 2.7m という Fork 順はありえない。
いちいち、付加されたコードを削ぎ落として作業すんの?
ありえんでしょ。
なお、ModuleModel.class というのは、Dolphin サーバーがカルテ記載内容をデータベースに永続化する際に最も基本となる単位で、SOA 欄文字列・図などのグラフィック要素・P欄文字列をそれぞれ一つのモジュールとしている。
シンプルだが、当時のデータベースが CLOB をうまく扱えなかった関係上、図も文字情報も全てバイナリ化してBLOB として格納されている。
カルテに復号する時は、モジュールを拾い集めた後、内容毎に処理を変える必要があるというなかなか地獄のような仕様になっている。
さらにおかしいのは皆川和史氏が設計したことにはなっている点だ。
しかし、
・LSC の経営陣が変わった際に彼は担当役員を外されている
・この程度の基本的なデータ構造を把握していない
(自分が設計したデータ構造を他のものと取り違えるということがあるだろうか?)
・メドレーに至っては開発者認定していない
といった事実があり、個人的には別の人が設計したのではないかと思っている。
増田茂医師に関しては言わずがなだろう。
hibernate serach を用いた検索機能はアイディアとして素晴らしいし、付加されたコードも申し分のないものだ。だが、こんな完璧な修正を行える人が、データ構造を把握しておらず、Fork 順に関して間違えるとは思えない。
やはり、別の人が設計・コーディングしたと考えざるをえない。
ところで、オープンソースの世界は一般には不親切で(商用を前提にしていないので当然だ)、よくわかってない人間に対してメンテナが言う言葉は大抵の場合
ソースコード嫁
である。